『半落ち』の話題(続)

以前に書いた『半落ち』の話題(http://d.hatena.ne.jp/ogiso/20030505#p2)について、さる事情通のかたから、「事実誤認」論議直木賞選考会での評価をかなり左右したらしい、との指摘を受ける。そうだとしたら作者の横山氏は気の毒で、名誉回復を求めたくなるのも無理はないと思う。林真理子氏は『バトル・ロワイアル』のときはある種の鋭い嗅覚の持ち主なのかもしれないと思っていたけれど、今回はただ他人の意見の尻馬に乗って引っ込みがつかなくなっただけみたいで、いまひとつ面白味に欠ける。

この件に関しては、フィクションだから堅いこと言わなくてもいいじゃない、という意見も見かける。作品によってはそういう種類のものもあるだろうけど、こと『半落ち』に限って言えば、これは現在の社会・法制度を前提としてリアルな筆致で書かれた作品で、しかも現実に存在する「年齢制限」に物語上の重要な意味を持たせて利用していたりもする。この場合、仮に何かの法制度上の考証ミスが見つかったとしたら、それが致命的な欠陥になることもありうると思う。(ただし、今回の件は先述したように致命的な欠陥とは思えないし、そもそも考証ミスとも言いにくい程度のもの)

半落ち』の結末のどこが弱いのか、に関して言えば、この結末でないと成り立たないような物語上の必然性(あるいはミステリ的な美しさ)を感じられない、ということに尽きる。結末に関する前ぶれ(いわゆる伏線)が少なくとも作品の前半部で示されていないし、何か作品の統一的な主題と呼応しているわけでもない。実はこんな事情があって……という情報を後から追加して真相が明かされるので、だいぶ唐突な印象を与える展開になっている。それなら結局、何となく崇高で自己犠牲的な感じのする話であれば、別に何でも良かったんじゃないかと思えてしまう。

また、この結末は多分に主人公の性格に依存したものなのだけど、その核となるはずの主人公の描写が実は小説内で成功していないように思える。この小説は、本人は内面を描写されない「不在の中心」で、事件に関わった周囲の男たちの視点から主人公の人物像が語られるという構成になっている。ただし、全員が揃って主人公を一面的に聖人視するばかりで(「あんな澄んだ目をした男が悪人のはずはない」とか)、主人公の人物像を多面的に照らし出すような趣向には全然なっていない。結末に関しても単にその平板な「聖人視」路線の延長で、意外な一面を知ったという感じはしない。

我々が(少なくとも僕が)小説の登場人物に人間的な実在感を見るのは、「実はこんな一面もあった」という多面性を知るときなのではないだろうか? 不在の主人公の意外な一面を最後に知らされる物語、例えばアントニイ・バークリーの『試行錯誤』や映画『市民ケーン』はどちらもそういう話だと思う。『半落ち』の主人公にはその種の立体的な実在感を見出せなかった。

半落ち』の結末におぼえるどこか釈然としない感じ、その整理がつかないうちに例の「事実誤認」の話題が出されて「あ、言われてみればそれが原因かも」と必要以上にクローズアップされる結果を招いてしまったのではないかと勝手に推測している。